肥岡前蔵
当サイトにおいて
朝太郎の部下にして、秀心の元護衛。帽子と拳銃(フランス製)は秀心から貰ったもの。
口数が少なく感情の起伏も少ない。一見内気で気弱な少年に見えるが戦闘時になると表情を変える。
また、自分の意思がやや欠けている傾向があるが、無感情というわけではなく、
自分でも自分の感情や人との接し方をよく分かっていないだけである。
そのような精神状態のまま暗殺を続けた結果、無意識下の罪悪感に耐えきれず持ち主の以蔵と共に脱藩する。
朝太郎のことは「南先生」と呼び慕っているが、この時厳しく批判されたまま喧嘩別れになってしまったことから、
どことなく彼に対しては距離を置いている。
史実
土佐藩士・岡田以蔵の佩刀。本間精一郎暗殺の際に使用したとされ、京都の河原町に行くと現在も刀跡が残っている。
元々は打刀だったと思われるが、以蔵が暗殺の際に刀身を折り、後に宿毛の南海太郎朝尊の元で脇差に打ち直されている。立ち絵だとわかりにくいが、左腕が欠損しているのはこのため。その後土佐勤王党が弾圧されるまでは、武市家に保管されていた。
明治維新後は靖国神社の遊就館に折れた刀身の切っ先の方が展示されていた時期もあったが、現在は行方不明となっている。
前蔵が生まれた刀派の肥前物は非常に価値の高い刀が多く、そのような高価な刀がどのようにして以蔵の元に渡ったのかについては諸説ある。
脱藩した坂本龍馬から京にいた武市半平太経由で貸し与えられたという説が最も有力だが、武市が京にいた当時龍馬は大坂におり、また以蔵が本間の暗殺を決行した文久2年8月当時、龍馬は江戸におり、どちらにしても龍馬から以蔵の手に渡ることが可能だったのかどうかは疑問が残る。
このため当サイトでは龍馬の肥前忠広と以蔵の肥前忠広は別の刀として扱っている。
一方で、遊就館にてこの刀の切っ先が展示された際の解説文には、龍馬の親戚(河原塚茂太郎という)が途中まで脱藩に同行しており、その道中で龍馬から受け取ったものが武市の元に渡ったと記されていた。真相は不明のままだが、もしかしたら本当に龍馬から紆余曲折を経て以蔵の手に渡っていた可能性もゼロではないのかもしれない。
参考文献
『維新土佐勤王史』
『刀剣会誌 第10号』
『正伝 岡田以蔵』
『真説 岡田以蔵』
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