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【小説】神なき天誅 番外編【武市半平太の書】

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天保の大飢饉が土佐を襲った時代。私は上士と下士の中間にあたる白札という身分の武家に生まれた。吹井村の地主だった武市家で、両親とともに飢饉の対応に追われた日々。不作が続く農村の経営状況とは反比例して、藩からの年貢の取り立ては厳しさを増すばかりだった。
それでも両親は白札という武家に生まれたことを誇りに思っていた。
父は常々「刀には神が宿りゆう。わしらを正しい道へ導いてくださるがじゃ」と語り、それを心の支えにしていた。肥前の名匠と名高い肥前忠広や河内守正広など、いくつもの刀が蔵に保管されているのを見せてもらったこともある。幼い私にはよくわからなかったが、あれらがいずれも価値の高い刀だったと知ったのは私が元服した後のことだ。

一度だけ私は、刀に宿った付喪神を見たことがある。

その日取立てに来た上士は、いつも以上に厳しかった。
かろうじて収穫できたわずかな作物を持ち込んできた村人たちを、両親は決して責めなかった。しかし、それでも藩から課された年貢には到底足りず、私は幼いながらにそのことを察していた。吹井村の人々は皆、老犬のようにただ黙して耐えていた。
だが今にして思えば、藩の財政状況も余裕がなかったのだろう。いつもなら程なくして帰る上士が、この日ばかりはなかなか腰を上げない。恐る恐る様子を窺いに行った私の目に映ったのは、「もうこれ以上は待てん」と詰め寄られる父の姿だった。私は意を決して父の隣に並び、どうかご容赦をと嘆願したが、童が口を挟むなと上士に頬を殴られた。

このままでは村の存続も危ういのではないか。そんな時に脳裏を過ぎったのは「刀には神が宿る」という武市家に伝わる迷信。その時の私はもう、それ以外に縋れるものが遺されていないように感じていたのだ。
その夜私は蔵に忍び込んだ。丁重に飾られた刀の前に膝を折る。
「付喪神様、付喪神様。吹井村はもう限界が近うございます。何卒村の飢饉をお救いつかあさい」
何度唱えただろうか。うわ言のように繰り返しているうちに、背後に何かが揺らめく気配を感じた。

「…ごめんね。それはできないんだよ」

その時私が見た付喪神は、立派でも神々しい存在でもなかったように思う。血の気を失った頬に、泣き腫らしたような紅い目。着物は布切れのように裂け、裾や袖には煤と泥がこびりついている。朽葉色の外套は薄汚れ、風に吹かれてもどこか重たげだった。腕が折れそうなほど瘦せ細り、その肩を包むのは孤独だけに思える。そんな惨めでなんの役にも立たなそうな少年だった。

「何故にございますか。我々の努力が足りんがでしょうか」
食い下がる私に、付喪神は悲しそうに応える。
「そうじゃない。僕達は利益を与えるとか、奇跡を起こすとか、そういうことはできないんだよ」
「ほんなら何のための神ですか!?これが貴方様が導かれる正しい道ながですか!?」
「…………ごめんね」
泣き出しそうな微笑みを一瞬浮かべたかと思えば、少年の輪郭はふわりと滲み、風のようにかき消えた。残されたのは、重たく沈む静寂だけ。それが付喪神との最初で最後の邂逅だった。
だが今となってはそれも都合のよい夢だったのか、狐にでも化かされたのか、確かめようもない。
――やがて過労が祟り、嘉永二年に両親は相次いで亡くなった。
遺された祖母は大いに悲しみ、崖から投身自殺を遂げようとする程で、思いとどまらせるのに苦労した。
当時、私は二十歳だった。

やはり神など何の役にも立たない。
少し考えればわかることだ。
信じられるのは自分だけ。
自分の力で現状を変えない限り、藩から搾取される生活は変わらない。
私はこの藩を変えねばならない。

ほどなくして私は吹井村の管理を親族に託し、祖母を連れて城下町に移り住んだ。新町田淵の郷士である島村家の娘、富子と婚礼を果たしたのも同時期のこと。
藩を改革するには重臣に見初められ出世することが正攻法だが、それだけでは貧困に苦しむ下級武士や庶民の現状を根本的に変えることはできない。せいぜい山内派の家臣に言いくるめられるのが関の山だろう。必要なのは自分自身の政治的影響力と、有力な同志。
ではどうする?信濃の佐久間象山のように、寺子屋でも開くか?…いや、白札とはいえ下士が学問を教える立場になれば、危険因子として藩から目をつけられかねない。ならば武道ではどうか。土佐藩は武道の教育には積極的だ。表向きは剣の腕を磨く場ということにすれば、隠れ蓑にできる。下士層からの支持も集めやすいだろう。
幸い私は剣術に自信がある。…となれば、目指すべきは政治活動の拠点となる道場の開業が望ましい。
しかし私が世話になっていた師範も亡くなったばかりで、新たに道場を探さねばならない。そこで、他藩にも影響力のある流派に入れば、剣術修行と称して藩外にも出やすくなるのではないかと考えた。私自身の人脈も広がるだろう。目星をつけたのは土佐藩一の剣豪と謳われた麻田直養。江戸で鏡心明智流と小野派一刀流を極め、土佐の城下町に道場を構えて以来、入門を志願する者が絶えないという。
私が門を叩いてから免許皆伝を授かるまで、さほど時間はかからなかった。

その麻田直養の道場に、岡田以蔵という少年がやってきた。
人に剣を教えることを得意とし、既に師範の信頼も得ていた私に師範は急に思いついたかのようにこう言った。
「この童に指南してみんか」
率直に言えば、面倒ごとを任されたと思った。
誰とも目を合わせようとせず、一言も言葉を交わそうとしない。恐らく度胸試しで親に連れてこられたのだろうが、こんな見るからに内気そうな少年に剣を教えたところですぐに音を上げるに違いない。私はこんな子供の相手をしている暇などないというのに。
………と言いたいところだが、それをそのまま口にして道場での私の立場を悪くするのも惜しい。私は渋々竹刀を取った。
しかし、いざ竹刀を握った以蔵はまるで別人のようであった。
初太刀からその勢いに面を打たれそうになる。踏み込みは速く、鋭い。目に宿る光は、普段のどこかぼんやりとしたそれとは違い、獲物を射抜く猛禽のように鋭かった。一太刀一太刀に、抑えきれぬ怒りと衝動が滲んでいる。それでいて、決して無闇に振り回すわけではない。相手の間合いを一瞬で見切り、体格差を活かして、じりじりと懐へ入り込んでくる。息遣いも荒いが、乱れてはいない。粗削りながら、理に適っている。
間違いない。これは天性の才能だ。この子に今から剣と勉学を教え育てれば、将来優秀な部下になるに違いない。

私が以蔵に稽古をつけるようになってから暫く経ったある日。
その日の以蔵は太刀筋が鈍く、いつもなら避けられるはずの剣を正面から喰らってしまった。参りました、と呻く以蔵を私は訝った。
「どういた以蔵。いつものおまんならこればあ避けられるろう?」
面を外した以蔵は俯いたまま答えない。
以蔵はよく、不満や悩みをはっきり口にしない割に心配して欲しそうなそぶりを見せるところがあることに、この頃の私は気づき始めていた。…また私が世話を焼かねばならないのか。
私がため息をつきそうになったところで、以蔵が不意に口を開いた。
「…武市先生。アシは粗暴で心行不正ながでしょうか」

以蔵の話はこうだ。
昨日、私が教えた動きを反芻して竹刀を振りながら、人通りの少ない道を選んで帰路についていたところ、偶然通りかかった上士に竹刀をぶつけてしまった。当然以蔵はその上士に殴られ、親からも折檻を受けた。
「粗相をしたアシが悪い…そりゃあ分かっちゅうけんど……。先生、アシはどういて武士に生まれたがですろう?」
さて、どうしたものか。上士下士にかかわらず、人通りが少ないとはいえ道端で竹刀を振り回す方が悪いのは言うまでもないが、それを言ったところで以蔵はますますへそを曲げる。恐らく以蔵が求めているのは正論ではなく共感。私が最も苦手とするものだ。
それを親兄弟ではなく私に打ち明けてくる時点で、恐らく以蔵は家族との関係が上手くいっていないのだろう。何故か分からないが幼い頃、痩せ衰えた老犬のような目をした村人達から、わずかな年貢を受け取った日のことを思い出した。
こういう子供は愛情に飢えている。気の毒に思うが、家族とて、血が繋がっているというだけで心が通じるとは限らない。他人に愛を求めるのは甘えだ。愛などなくても、自分の力で生きていけ。
それを教えるにはどうしたらいいか。…ふと思い出したのは、付喪神が宿った刀だった。そうだ。あの日見えた付喪神は村の飢饉を救ってくれなかった。その結果、信じられるのは自分だけだと学びを得ることができた。以蔵にそれと同じ経験をさせられないか。
「以蔵。この刀をおまんに預けよう」
驚いてこちらを見返す以蔵に、私はあえて両親に言われた何の役にも立たない迷信を伝える。
「刀には神が宿りゆう。きっとおまんを正しい道へ導いてくれるろう。
この刀に恥じんよう、正しく生きろ」
私の思惑など知る由もない以蔵は、わざわざ正座して向き直った。
「……わかりました」震える手で刀を受け取る。「アシは正しい武士になります」
その表情は硬く、喜びよりもむしろ畏怖の色が濃い。それは神への畏敬の念だろうか。それとも、正しくあらねば愛されないという強迫にも似た気持ちだろうか。
今思えばあの刀を以蔵にあげたことで、私は自分の正しさだけを信じ、他人の痛みを見る目を閉ざしたのかもしれない。

それから10年後の万延元年、藩命で私は以蔵と他数名の弟子を連れて西側諸国を視察した。その帰りに立ち寄った宿毛(土佐藩の最西端)で南海太郎朝尊という刀工と出会った。刀鍛冶としての理論だけでなく、世情にも通じた彼との語らいは実に刺激的で、思わず時間を忘れるほどであった。彼は友好の証にと、刀を打ってくれた。
付喪神は見えなかった。

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