1. HOME
  2. ブログ
  3. 【小説】神なき天誅 番外編【武市半平太の書】

【小説】神なき天誅 番外編【武市半平太の書】

―――遠くで鞭打ちの音が聞こえる。
徐々に私の意識も過去から現実に引き戻される。

そうだ。今この瞬間にも同志たちは厳しい責め苦に耐えている。
私は何としてでも、土佐藩の下級武士や庶民らが暮らしやすい世を創らねばならない。
以蔵。これはお前が幼い頃に感じた痛みに報いるための、正しい道でもあるのだ。だがお前はついぞそれを理解せぬまま、鴨川に身を投げた。それならそれで致し方ない。お前が弱かっただけのこと。
そんなお前が今になって戻ってくるとは。恐らく今の以蔵には、かつてのような私への忠義はもうないだろう。あの子は昔から哀れな己に酔い、周囲の同情を買うのが上手かった。それが我が党にとって不利に働かないと良いのだが…

だが、以蔵は自白した。
聞けば、女子供でも耐えうるような軽い拷問で簡単に屈したそうだ。弱さを利用して同情を買い、私を悪人に仕立てる気か。
私の正しい道において、あのような愚か者と関係を続けてきたことが唯一の間違いだったのだろう。
私はあの子を始末せねばならない。

 

――慶応元年八月二十三日 天祥丸の手配が整い申し候。

獄外の同志から届いた手紙には、そう記されていた。手紙と共に添えられていた小袋には、一粒の丸薬が入れられていた。この天祥丸は、同志が親戚に依頼して調剤させた毒薬である。
これを以蔵に飲ませ、自死させる。

天祥丸を添え、牢番を通じて以蔵毒殺の命を同志に伝えてから暫く経つが、いつまでたっても彼が死んだという報告は入ってこない。
どういうことなのかと牢番に問い詰めると、以蔵の父がなかなか毒殺に同意しないという。子供の頃、上士に殴られた以蔵の気持ちを無視し、折檻したことを今でも後悔しており、今度こそ以蔵の味方でいたいからだそうだ。本当にあの子は周囲の同情を買うのが上手い。
とにかく早く父上を説得するよう同志に伝えてくれ、と牢番に命じて話を切り上げた。牢番が去った後、私は小さく舌打ちした。その直後、ふと胸の奥に得体の知れぬざわつきが広がった。……何だ、この感情は。きっと私は毒殺がうまくいかないことに焦っているのだ。そういうことにして、私はそのざわつきから目をそらした。

それから私はただ、毒殺の成功を祈りながら待つ他なかった。
以蔵殺しが思うように運ばない一方、藩からの尋問は日増しに追求が厳しくなっていく。私の神経も日を追うごとにすり減っていくのを感じていた。

その日もまた、後藤象二郎は飽きもせず同じような尋問を繰り返してきた。…いや、尋問に倦み始めているのはむしろ彼の方かもしれない。部屋に入ってきたときの足取りも、以前のような威圧感はなく、どこか億劫そうですらあった。
「もうええ加減認めたらどうじゃ」
後藤様は懐から取り出した紙束を、指先でひとつまみして突き出してくる。
「以蔵の自白で東洋様殺しも、井上佐一郎殺しも、おんしが主犯ゆう裏は取れちゅうがやぞ」
私は感情の動きを悟られまいと、眉ひとつ動かさぬよう意識を研ぎ澄ませる。
「以蔵は嘘つきです。あげな心行不正な男の証言を鵜呑みにするがは、あまりに早計やありませんろうか」

「以蔵だけやない。他の者も自白しちゅう。これ以外の事件やち、おんしに命じられて殺した言うてる自白がこじゃんとあがってきゆうぜ」

その言葉に、研ぎ澄ませたはずの意識が一瞬ざらつく。聞き間違いではない。後藤の目には、あからさまな勝利の色が灯っていた。
(何?)
何人かが拷問に耐えかねて口を割ったか。それとも、もとより覚悟の薄かった者たちが己を守るために私の名を差し出したのか。思考が一瞬先へ走る。だが、それ以上に胸を突いたのは、次の後藤の言葉だった。
「いい加減受け容れえ。大殿様は最初からおんしのことなんぞ信用しちょらんぜ」
静かに、だが容赦なく突き刺す声音だった。
「大殿様の狙いはあくまで朝廷と幕府の協調や。尊王攘夷なんぞもっての外。…けんど、そうは言うたち我が藩も外様やきのう。政に口を挟む力は元より強うない。そこでおんしらを――土佐勤王党を、使ったがじゃ」
…分かってはいた。大殿様が完全に我々に心を許していたとは思ってはいなかった。こちらも少なからず利用していた節はあったのだ。我ながら虫が良すぎると思いながら、それでもわずかばかりの信を寄せられていたのではないかと願いたかった。自分たちの行いに意味があったのだと、最後まで信じたかった――。

「おそれながら一度、大殿様に謁見を願えませんろうか」
私は今一度、格子戸越しに立つ後藤様を見上げる。
「私の証言と以蔵らの自白、どちらが正しいか。公平に、そして念入りにご精査いただきたいがです」
やれやれと後藤は肩をすくめる。
「卑しい下士の出で、まだそがな夢を見ゆうがかえ?
今おんしの命があるだけでも、大殿様はじゅうぶん寛大な処置をとっておいでながやぞ。身をわきまえや」
土佐勤王党を動かした男と、それを取り締まる男。同じ藩に生まれ、同じ時代に異なる志を抱いた者たちの間には、もう埋めようのない隔たりができていた。

後藤象二郎が去った後、揚り屋の中はどこまでも静まり返っていた。重い扉の閉まる音すら、遥か遠くの出来事のように思える。私はただ、薄暗い天井を見上げながら、浅く長い呼吸を繰り返していた。
――遂に、第二の以蔵が現れてしまったか。
誰なのかは分からない。ただ、牢番の報告にはなかった。つまり、あの男が何かを隠していたか、あるいは他の何者かが手を回していたのか。いや、もはやそんなことはどうでもよいのかもしれない。
誰が自白したかを詮索することに、何の意味があるというのだ。
もはや、あの牢番すら信用に値するかどうかも分からない。

「先生!」
戸口からの声が、私の思索を遮った。
「すまん。私は今、話を聞く気分やな――」
「弟君の、田内衛吉殿が……自害されたがです」
言葉を飲み込む音が、喉の奥で乾いた音を立てた。
「……何……?」
声が震えたのが、自分でも分かった。
「自白してしもうたことを悔やんで…以蔵に使うはずだった毒を、己で飲んだがやそうです」
報せを持ってきた男は、苦悶に満ちた表情で頭を垂れた。
「『兄上に面目ない』と、最期までうわごとのように申しちょりました」
視界が霞む。脳が理解を拒んでいる。だが、現実は目の前で淡々と告げられた。
「…………そうか。もうええ。下ごうてくれ」
声を絞り出すのがやっとだった。男が頭を下げて去る気配だけが、静寂の中に響く。

関連記事