【小説】神なき天誅 番外編【武市半平太の書】
まさか衛吉まで自白していたのか。
思えば、あの弟はいつもどこか頼りなげで、心の内を表に出すことを恐れるところがあった。私に対しても、真意を明かすことはなかった。それでも、私を「兄上」と呼び、ひたむきに支えてくれた男だった。
――もはや誰も信用できない。
いや、そんなことは最初から分かっていたはずではなかったか。信じられるのは己のみ。そう自分に言い聞かせてきたではないか。
だが、待て。
私が他人を信じていなかったということは――他人もまた、私を信じていなかったのではないか?
尊王攘夷を掲げ、下級武士の待遇改善を訴え、時流の変革を志とし、土佐勤王党を組織した。私の思想に共鳴したと言って、集ってくれた同志たち。彼らは本当に「同志」だったのだろうか?それとも彼らもまた、自分の立場を変えるための機会として、私の掲げる理念を「利用」していただけだったのか?
そう思った瞬間、背筋にひやりとした感触が走る。
「……ちくと待て」
誰にともなく、私は口にしていた。
「ほんならわしは――あの日から、何ちゃあ変わっちょらんやいか」
幼き日、村を襲った飢饉を救いたい一心で、神の力にすがった。だが、刀に宿ったという付喪神は、願いを叶えることすらできなかった。無力だった自分。救えなかったあの日。
私は変わったと思っていた。己の力で時代を動かす者になったと思っていたが――何も変わってなどいなかった。私はまた、あの日と同じように、ただ祈り、ただ信じ、そして裏切られ、ひとり打ちひしがれているだけなのだ。
その時、不意に何かが揺らめく気配を感じた。
肌に触れる空気がふと変わる。それは間違いなくあの日、刀に向かって祈った時に感じたものと同じ気配だった。……まさか。今この場にいるというのか。あの、何の役にも立たなかった神が。
「半平太。久しぶりだね」
その声は、何処か遠くから聞こえるような響きをもって、私の名を呼んだ。
「………付喪神様…」
懐かしさと、戸惑いと、皮肉な運命への憤りが胸にせり上がる。何故だ。何故、今になって現れるのか。
「ねえ半平太。人間が怖い?」
そう尋ねてくる少年の姿をした付喪神に、目を合わせられない。言いたいことは山ほどあるというのに。
「……率直に申し上げて、今は何を信じてえいか分かりません」
それなのに、喉から出てきたのは情けない本音だけだった。
信じられるのは自分だけだと思っていた。
だが、自分すらも信じられなくなった時、人はどこへ行けばいいのだろうか――。今の私は己の中に残る理想や信念を、あざ笑うかのような現実の重さに心が潰れそうだった。
「そっか。そうだよね」付喪神は静かに頷いた。「でもそれは、以蔵がずっと感じてきたものだよ」
私はハッとした。
この棒切れのような少年に言われるまで、今まで以蔵が何を感じてきたかなど考えたこともなかったのだ。
誰も味方がいない。何を信じていいかも分からない。そんな途方もない暗闇の中で、あの子がそれでもなお私に従い、天誅を続けたのは何故だろうか。…私は知っていたはずだ。あの子が愛情に飢えていたことを。どれほど利用されても、どれほど都合よく扱われても。そこまでしてでも、愛されたかったのだ。まるで、子供が無条件に親の愛を求めるように。
なのに私は、あの子が求めた愛を弱さだと切り捨てた。あまつさえ、先程まで殺すつもりでいたのだ。それがどれほどあの子を傷つけただろうか。
いつぞや、本間という越後浪人に言われたことがある。私の一方的な正しさの押し付けによって、苦しむ者の存在に気付かないのかと。人を苦しめる思想など、正しい道ではないと。
…その意味に、この期に及んでようやく気付くとは。
「……あの子が自白したがは、愛を与えんかったわしへの報復っちゅうことか…」
「それは違う!」
付喪神が即座に否定する。
「以蔵が自白したのは、自分が犯した罪と向き合うため。それが半平太たちを追い詰めることも、恨まれることも分かってた。それでも自白して罰を受けることが、以蔵が自分で導き出した正しい道だったんだ」
それは、思いもよらない返しだった。
……ああ。あの子はもうとっくに私の手を離れ、自分の信じる正しい道を見つけていたのか。
『この刀に恥じんよう、正しく生きろ』
あの子は私の教えを守っていた。あの子は私が思っていたより、ずっと強かった。
「……どういてわしは、もっとあの子を抱き締めてやらんかったがやろうな」
込み上げる涙を拭う間もなく、付喪神が応える。
「…『愛を求めずに生きていけ』。それも以蔵に必要な教えだったと思う。
それに、君が与えた影響はそれだけじゃないんだよ。
…朝太郎。おいで」
すると牢の暗がりから、別の声が響いた。
「先生!」
そこに現れたのは、藍色の直垂をまとい、背筋をすっと伸ばした青年だった。
「やっとお目通りが叶いました」
年若いはずなのにどこか大人びた気配を纏っていて、まるで高貴な家に仕える近習のようでもあった。その姿は隣の痩せ細った少年とは対照的で、均整の取れた体格に、整った顔立ち。金糸を思わせる淡い髪が静かに揺れ、翡翠のような瞳がこちらをじっと見据える。
「俺は南朝太郎。貴方が宿毛で購入された、南海太郎朝尊の付喪神です」
はっきりとした声と所作には、刀としての誇りと品位が滲んでいる。
実年齢で言えば少年よりもはるかに若いはずだが、なぜだろうか。その眼差しには私よりも遥か先を見通しているような深さがあった。
それに――気のせいかもしれないが、その顔立ちはどことなく私に似ている気がした。
朝太郎と名乗った付喪神は、どこか誇らしげに言葉を続けた。
「先生の佩刀となって以来、尊王攘夷の理想を共に学び、信じてまいりました。そして先生の志に共鳴し、立ち上がった志士は数知れません。その革命の最中にあることこそ、俺にとって何よりの誇りでした」
「……けんど、わしの元に集った志士たちは、わしを利用しただけやないがか」
私の問いに、朝太郎は首を横に振る。
「信じなくてもかまいません。ただ、事実として知っておいてください。野根山であなたの無実を信じて挙兵した者が、二十三人もおりました」
私は息を呑んだ。
「それだけではありません。坂本龍馬は長崎で同志を集め、『亀山社中』という組織を立ち上げました。
中岡慎太郎や田中顕助は、貴方の志を引き継ぎ、長州に亡命しております。今は身を潜めておりますが、やがて時勢が来れば再び立ち上がるでしょう。
――先生の愛は、確かに人々の中で生きているのです」
少年がぽつりと呟く。
「半平太は昔、『愛なんてない』って言ってたよね。でもさ。
村のために、下士のために、自分には何の見返りもないのに命を懸けられるのは――
それって、立派な愛じゃないかな」
私はその言葉を聞いた瞬間、堪えきれなかった。
後悔も、悲しみも、恥も、痛みも、すべての感情がいっぺんに胸を満たして、溢れ出した。
私はただ、声を殺して泣いた。