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【小説】神なき天誅 番外編【武市半平太の書】

そして訪れる、慶応元年五月十一日。

私は政治犯として切腹を命じられ、介錯人は甥の小笠原保馬と、富子の弟である島村寿太郎に決まった。その執行日が今日である。
何も言わずに白装束に身を包む。純白の裃の帯を締め直す手は、不思議と震えていない。身支度を整え、私は牢番に向き直った。
「世話になったのう」
「武市先生……」
牢番は私以上に、無念さと悔しさを滲ませた目をしていた。
「そがな顔をしな。大殿様は、私に『武士としての死』をお許しくださった。このうえない名誉じゃ」

私の切腹は、収容されていた南会所の大広庭を清めて行われる運びとなった。
大広庭はどこか現実離れした静けさに満ちている。周囲を白木綿の幕で仕切られた、白と影だけの世界。人々の視線が私の背に突き刺さるのを、皮膚の上に感じる。
落椽(おちえん)から3尺ばかり離れたところに畳が2枚敷かれ、その上に白い大風呂敷が広げられていた。白木で作られた三宝に短刀と、白の木綿ぎれが添えてある。
両側には保馬と寿太郎が、神妙な面持ちで控えていた。私は彼らに「ご苦労」とだけ告げる。彼らもまた、黙って一礼で返してきた。
私は定められた場所に膝をつき、背筋を正した。

すると、後藤象二郎の声が、まるで法の鐘のように静かに響いた。

「武市半平太。
右は、去る酉年以来天下の形成に乗し、密かに党与を結び、人心煽動の基本を醸造し、爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの儀屡々申し上げ、はたまたご隠居様へ度々不届の義申し上げ候事共――」

穏やかに目を伏せる。
――今ならわかる。
私は痛みを捨てるために。恐れを捨てるために。愛も喜びも、すべてを切り捨てねばならなかった。かつての私にはそれが必要だったのだ。
けれどそれを正しいとすることはできない。私の身勝手な正義が、多くの人生を壊した。その事実は変わるまい。

「――厳科に処さるべき筈の処、ご慈善を以て切腹これを仰せ付けらる」

私は膝を正し、腹の前に刀を据えた。
刀を握る手に、力が入る。
――刃が腹を割く。

激痛に、喉奥から呻きが漏れた。だが私は叫ばなかった。
そのまま、寿太郎が刀を振り上げる。
「待ちや」
それを制すると、寿太郎の息を飲む気配と共に、動きが止まった。

「今のは…衛吉の分…」
左から右へと、もう一太刀を入れる。
「これは…以蔵の分…」
喉が震え、視界が滲む中、それでも右から左へと最後の一文字を刻む。
「そしてこれは――大殿様への申し開きにございます」
血の海の中で、私は静かに前に倒れた。

三文字割腹。
武市半平太、享年三十七。
その生涯を閉じた。

意識の途絶えるその間際、心の中で誰にともなく手を合わせる。

付喪神様。このような私にも、最後にお姿を見せてくださり、ありがとうございました。
一つ許されるならば、どうか、以蔵を。衛吉を。天誅に加担した全ての党員をお赦しください。私が彼らにそうさせたのです。どうか、私一人の罰でお赦しください。

白みゆく視界のなか、誰かが傍らに膝をつく気配がした。
「……貴方の願いは、確かに預かりました」
それは、いつか獄中で聞いた声。
かすかに藍の匂いがした――南海太郎朝尊の、あの刀の……

ああ、そうか。
私が遺したものは、確かに誰かへと受け継がれていくのだ――

龍馬。慎太郎。
……あとは、頼んだぞ。

ふたゝひと
返らぬ歳を
はかなくも
今は惜しまぬ
身となりにけり

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